マタイによる福音書18:1-14      2015.7.26

1-5天の国では誰がいちばん偉いのか?

弟子たちは、今まで何度かイエスから「天の国」について聞いていた。しかし、弟子たちの天の国についての理解は漠然とし、この世の制度、社会の仕組、序列など、そのまま続くのだろう、と考えた。そして「天の国ではだれが一番偉いのか」の質問となった。イエスの答えは、単純にして明快であった。

・「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。(3)

□イエスは言われた。子供のようになりなりなさいと。子供の特徴は何か……、親に任せ切る、疑わない、無邪気、心に思ったことを正直に言う等々、身体的には、澱みない透き通った声、綺麗な瞳、愛くるしい自然な笑顔等々が浮かぶ。天国は、この世の仕組など一切無縁であって、身分の差別・違いが無く、階級が無く、威張らないことが名誉となるところである。幼子の尊さであり、特徴である罪のなさ、謙虚さ、素直さ、信頼、先入観、固定観念がない等々である。イエスは、その人にまつわり付く周囲の諸々のしがらみ、環境で評価する見方を拒絶し、子供のように真っ白な心で人を見なさい、と教える。

・「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(4)

 

6-9小さき者の誘惑

□小さき者、子供は、純真で誘惑に陥りやすい。何事も真正面から受け止めるので、信じやすく信仰の道にも入り易い一面がある。「汝の若い日に創り主を覚えよ」(コレヘト12:1)の御言葉にもあるように、私の周囲にも、成年の日に信仰の門をくぐった人が多い。ただ、それだから、信仰を持とうとしている子供をつまずかせること、「この世に神はいない」等と、教え込むことは大きな罪であり不幸であると、忠告する。

・「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6)

 

10-14迷う一匹の羊

□ここでイエスは、たとえとして迷う羊を挙げている。内容の流れからして迷う羊とは、幼児や子供等を特定したものでない。社会の中の弱者全てを指している。小さくて弱い者とは、青年でも、大人でも、お年寄りでも、特別な配慮を必要とする人達である。

 経済を重視する現代社会にあって、生産性、効率性に価値が置かれ、頭の良い人、個性のある人、強い人、自己主張できる人……要は競争社会の中で勝ち抜く能力、気力、体力のある人が重要視され、その尺度から漏れる人は、自ずと社会の隅に押しやらてれしまう。そのような人を「小さな者」と言っている。その中でも、身体、知的、精神的に障害のある人たちは、「最も小さな者」である。周りの人たちの支えがなければ、一人では自立生活ができない人々である。人間社会は如何に科学技術が進もうと、障害のある人の占める割合は減ることなく一定である。これは何を語るのか……。神様は、御自身の意志により、常にこの世に障害児者を送り出し、競争社会にブレーキを掛け、上ばかり見ず、他者の支援を必要とする人を社会に送り出している。「小さな者」の存在の果たす役割は、社会全体、世界全体に、一息つかす役割となる。自身の足元を見詰め直し、そこから更に広い世界、広い視野を見つめ、他者と協力し合い、助け合い生きて行くことの大切さ、本当の幸せを探し求める真理を常に提供する。それはイエスの「隣人と共に、みんなと共に生きよ」のメッセージである。

・「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(14)

 

むすびとして

・天の国は、子供のような心にならなければ入れない。修業したり、自分を高める努力をして入ることができるのではなく、任せ切る素直な心が大事である。

・「現代の迷える羊」をわれわれ一人ひとりが、身近なところで見つけ出し、勇気を出して支えの手を差し出したい……ほんのひと言の声掛けでもいい…それが神、イエスの御心な