イエス、十字架上に死す
                   マタイ27:32-66               2016.2.7
 この箇所では、イエスは、死刑場に連れて行かれ、十字架に張り付けにされ、死刑執行され、墓に納められる この一連の行為の様子が、時が流れるように描写される。
 部隊員の前であらん限りの侮辱を受けたイエスは、死刑場であるゴルゴダの丘へ連れていかれた 十字架を背負って丘に登ることは、体力のないイエスにとりあまりにも酷な事、そのためであろうか…通りがかりのキレネ人シモンに担がせた。
 イエスが十字架上に張り付けにされると、その頭上には「これはユダヤ人の王である」の罪状書を付けた。死刑が目前に迫っているにもかかわらず、十字架上に張り付けされた状態であっても、攻撃の手を緩めず、イエスを馬鹿にし続けた。人間はこうまで残虐になれるのか……そう思うと人間の計り知れない残忍性に、只々恐ろしさを感じる。現在、マスコミでは、多摩川河川敷中学1年村上君の生殺害事件が報道されている。殺害したリーダーは、その場の雰囲気で気が大きくなり、また、村上君のグループの報復を恐れて生かしておけないと思い殺してしまったと証言した。2千年前も、現在も人の殺人に至る残忍な心は同じである。
昼12時から午後3時までの3時間、全地が闇に覆われた。3時、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」……「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。
イエスにしては、余にも悲壮な叫びで似つかわしくない。弟子に裏切られ、群衆、祭司、長老等に侮辱され尽くされ、神にも見捨てられたとおもったのか。裏切られた恨みの叫びであればあまりにも淋しい事であり、イエスのこれまでの言動と一致しない。 
イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、詩編22の引用で、冒頭の言葉である。しかし、全体を読めば、神を賛美する詩であることがわかる。苦しみにあっても神を恨まず、神を信頼し、感謝する言葉に満ちている。「わが神、わが神」とは、決して神を見失っていない。「わが」という言葉は親しみの言葉であり、特別に愛する者に呼びかける場合でなければ使わない。 
 イエスの息が絶えたと同時に、この時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂け、地震が発生し、岩が裂け、墓が開き眠っていた多くの聖者の体が生き返った。そしてその後イエスが復活した後、墓から出て来てイスラエルに入り多くの人に現われた。
この出来事を見た百人隊長、見張りをしていた人々は、「この人は本当に神の子だった」と言った。自分たちが信じたイエスは、思っていた通りの人であると悟ったのだ。
大勢の婦人たち……ガリラヤからイエスの従って来た人たちで、マグダラのマリア、ヤコブ・ヨセフの母マリア、ゼべダイ(イエスの母の姉妹)の子らの母もいた。イエスの最期を看取る人々は、イエスに愛された人達、イエスに従った人達であった。我々の最期も、信頼した人々の中で天国へ旅立ちたいものである。
 イエスが十字架上で息を引き取る最期の光景を見届けた群集は皆、悲しみながら家に帰った。そんな中、百人隊長、知人、ガリラヤからイエスについて来た婦人たち、この人たちは離れがたく、ゴルゴダの丘の風景を見ていた。そんな時、イエスを引き降ろし墓に埋葬しようとする人物が現れた それがアリマタヤのヨセフであった。
 アリマタヤのヨセフにとり、イエスの死は自分がイエスの弟子であることを公に言い表す機会となった。「イエスの弟子であったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ビラトに願い出た。」(ヨハネ19:38)これまでヨセフはユダヤ人を恐れイエスの弟子であることを隠していたことが分かる。ヨセフのイエスを墓に埋葬された行為により、後、イエスが復活した事実をより明確に知る結果ととなり、ヨセフのイエスの遺体埋葬の申し出がいかに大きな行為であるかを知る。
イエスが十字架上で死亡した後、空気は一変した。イエスを信じる人たちは「イエスは神の子である」との思いを強くする。その一方で、イエスを敵視して来た祭司長たちは、以前、イエスが話された言葉「自分は3日後に復活する」が気になり始めたのである。
 イエスの死を境に形勢が逆転した。イエスが十字架上で亡くなったことはそれ程大きな出来事であった。
▢まとめとして
①イエスの最期の言葉は、神様への不信ではなく、賛美、信頼、感謝である。
②アリマタヤのヨセフは、イエスの十字架上の最期を見て、イエスは本当に神の子であったと確認でき、勇気を与えられ、ついに信仰告白した。私たちも、ヨセフのようにイエスが神の御心に従い私たちの罪の身代わりとなり命を捧げられたことを事実としてしっかり受け止めたい。
十字架上のイエスの姿を私たち一人ひとりの胸に刻み込みたい。そして苦しい時、誘惑に負けそうなとき十字架上のイエスを思い浮かべ、乗り越えていきたい