マタイによる福音書27:1-31         2023.11.12

西澤 正文

テーマ:人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためと分かっていた(18)

 そもそもイエスを逮捕し、引き渡したのは、人の心の底に内在する「妬み」でした。祭司、律法学者、ファリサイ人達は、イエスが民衆に与える影響が大きく、今までと同じように、イエスが自由に人々の中に入り、病を治し、御言葉を語る行動を続けたら、自分たちの影、存在が薄くなる、立場がなくなってしまう。そのような思いが日を追うごとに膨らみ、イエスを何とかしなければと考え、身型を拘束し死刑にしようと決めました。

 イエスを死刑にする、しないの決定権を持つ総督ピラトは、祭司、律法学者、ファリサイ人、民衆の心の底に「ねたみのため」(18)何としても死刑にしたい気持ちがあることに気付いていました。

 

 妬みとはどうして生まれるのでしょうか。人と比較し、他人は優れている、自分は劣っていると感じると競争が生まれるます。聖書には、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。」(コリントⅠ13:4)、「肉の業は…ねたみ」(ガラテヤ5:19)、「彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、…ねたみ」(ロマ書1:29 )自分より他人の方が優れていると思う気持が上手くコントロールできなくなると、「ねたむ」思いで人を見る自分に気づきます。

 信仰は、人との横の関係の前に、神と私の縦の関係が先立ちます。この関係を最優先ししっかりと築かなければなりません。神との基礎をしっかり固めなければ土台が揺れます。

 神から眺めれば、人は皆同じ器、大同小異、ドングリの背比べに等しいものです。妬みの気持が生れるのは神を思う気持が弱い事を示している。

▢むすびとして

 十字架は縦の棒と横の棒がクロスし、縦棒が地に突き刺さり、横棒を支えています。この十字架の形を見ても縦の神と人間との関係が先ず初めであり、重要であることが解ります。