マタイによる福音書7:1-14       2015.2.1

イエスの山上の説教もいよいよ終盤、佳境に入った感がある。

1-6人を裁くな

「人を裁くな」、いきなり命令形である。他人を裁けば自分が裁かれる、他人を量れば自分が量られるから、と。イエスは、このことは大切なことであり、よく注意しなさいと教える。 

姦通の女を現行犯で捕まえた律法学者たちがイエスの前に連れ出し、イエスがどういう態度をとるのか試そうとした場面が、ヨハネによる福音書に登場する。「彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 09これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(ヨハネ8:7-9) 

このことを通し、イエスは、他人をあれこれ批評してはならない、そうすれば自分も同じように批評の対象になる、人間の目は正しく他人を見ることが出来ないことを教える。人の尺度は自分本位、自分中心であり、不完全である。自分の欠点は気づきにくく、気づいても寛大で甘く、その一方で他人の欠点の指摘は大変厳しい。そのことをわきまえなさいと警告される。 

また、聖なる教えを聖でない汚れた人々(ここでは「豚」に例える)、耳を傾けたいと思わない人々や、私たち話すことをただけなすだけの人々等に聖なる教を伝えようと努力することは無益、徒労に帰すので、時間が無駄にしないよう賢明に対応しなさい。この状況判断は常に求められている。

7-12求めなさい

「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と連続した小気味いい命令形が、ここにも登場する。足を止めて考えてばかりいてはいけない。一歩でも良いから、現状から離れ進みなさい、と。イエスは、求める人に「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰を褒め、その人の願いに応える。人の意志、前向きな態度を敏感に捕えその人の願いを叶える。イエスは人の前向きな意志を大切にされる。

黙っていても親はわが子の願いをかなえる。ましてやわれわれ人間の創造主であられる神は、親以上に、人々の願いを叶えてくださる。だから人にしてほしいと思う事は、どんな事でもあなたが率先してしなさい。イエスは積極的に良いことを人にしなさいと勧める。私たちは、日々このイエスの教えを実行出来るよう努めていきたい。これこそが旧約聖書の教えの中心、核、黄金律である。この前に登場した説教でも同様の教えを説いている。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

13-14狭い門

「狭い門から入りなさい」小気味よい命令形がさらに続く。広い門に入いるのはやめなさい。広い門は安易であり、滅びに通じる。その一方で、狭い門は困難に遭うことが多いが、それが信仰の道であり命に通じている。永遠に至る神の道は、狭い門から始まるのに、この門を選択する者はごく少数である。

信仰をもてば、多くの困難、冷ややかな目線、陰口、噂等々、この世の悪質な洗礼が待ち受けることが多い。しかしこれらの多くの艱難に直面する時、近くに神が、救い主キリストが、気づかぬ内に近くに居てくださるのである。このことを知り、力を得て乗り越えることができる。困難の背後には必ず神、キリストが待っていてくださる。苦難に合わなければ神、キリストにも会うことはできない。苦難の時こそイエスに会える機会、ピンチがチャンスとなるのである。以前、清水聖書集会に参加されていたIM姉が「選択を迫られ迷った時、私は、難しい方を選択するように心がけている。すると後々、その選択が正しい選択であったことを知ります。」と。信仰の証を幾度となくお聞きしたことがある。

まとめとして

 イエスの教えは、分かりやすく前向きである。そしてわれわれ一人ひとりに呼びかけている。従いなさいと。今の状況あら一歩前に足を進めなさいと。我々は、イエスの呼びかけにどう答えていくのか。我々は、日々の生活の中でその呼びかけに応えなければならない。イエスはじっと我々の信仰生活を見つめられているのである。