ルカによる福音書3章                   2018.2.25 
   1-2章までは、ヨハネ、イエスの誕生予告、そして誕生の様子が伝えられた。この章では、いよいよ洗礼者・ヨハネの宣教活動の様子が伝えられる。

テーマ:神の言葉が荒野でヨハネに降った。…そこで,ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(2b-3)
  イエスが福音宣教を開始するに先立ち、神の御言葉が、直接、予言者・ヨハネに降った。「神の言葉が荒野でザカリアの子ヨハネに降った。」(2b) ヨハネにとり、身の引き締ま る思いで、神の御言葉をお聴きしたことであろう。そして、ヨハネは、自らの使命を自覚し、ヨハネの後にメシアであるイエスが現れ、この方が歩きやすいように、でこぼこ道を平らにするのが私の役目であり、環境を整えれば、誰もがイエスにお目に掛かれるようになる、と自らの責任を全うすることを決意された。
 ヨハネのもとに洗礼を受けたいと集まった群衆に向い、「我々の父はアブラハムだなどと言う考えを起こすな」と、ユダヤ人の民族的な血の繋がりを自慢しても、救いの役に立たない、と説いた。更に、裁きの時が迫り、悔改めには少しの時間的猶予がなく、良い実を結ばない人は裁かれる。木の下には斧が置かれ、既に裁きの準備が整えられていると、悔い改めの必要をはっきりと示した。 
    目の前の集まった人々に、理解しやすいよう気を配り、個別に具体的に話された。一般の人々・群衆には、身近な隣人へのささやかな実行しやすい行いを、徴税人には、貪欲に心を奪われないように、兵士には盗みをしないように、大切な戒めを示された。どれも極めて平凡であるが、適切な解りやすい教えを話された。
 主イエスの先駆け・案内役として登場したヨハネの教えは、余りにも平凡で、身近な内容と思われる。しかし、人は、これすら簡単に実行できない。いたずらに高い道徳的教えを民衆に語らないヨハネは、イエスの案内人に相応しい態度であったように感じられる。
 メシアを待望する群衆が、ヨハネがそのメシアでないかと勘違いされたため、イエスの洗礼について説明した。自分の洗礼は、水によるが、私の後に来られるイエスのバプテスマは、一方では、人を聖霊により新しい存在として救われ、他方では、不純な人を火により焼き尽くす徹底的なものあることを示された。あたかも農夫が麦を収穫する時に似ていて、麦が倉に納められるように、救われる人はしっかりと守られる。その一方で、実のないもみ殻が火の中に放り込まれ処分されるように、審判を受けて滅ぼされる人は、永遠の火で焼き尽くされる運命が待ち受けている、と。
🔲まとめとして 
   ヨハネは、預言者の終わりの人と言われる。旧約時代から地上にメシア・救い主の到来を待ち続けた人々の願いが、もう目の前に迫っていることを告げた(予言した)のがヨハネであった。ヨハネと言えば、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(マルコ1:6)の紹介のように、「荒れ野」のイメージが付きまとう。イエスの伝道開始にあたり、荒野を整地する役目を命じられ、裏方(舞台裏、台所等)で働く人に徹しられた。素朴であり飾り気がなく、また、正直で純朴な人であった。自身の立場、使命のため誠実に役目を果たすことのみを考え行動された。素朴な故、ヘロデ王に悪いことは悪いと進言し、命を惜しまず前に進んだ生き様を心に刻みたい。イエスの福音伝道の前に、私たちは、決してヨハネがいたことを忘れてはならない。
    私たちの生活の身近な所でも、自分自身の役割をしっかりと理解し、出過ぎず、与えられた業務を淡々と誠実に取り組む人たちが多くいることを心に留め、尊敬の眼差しを注いでいきたいと改めて思う。