ヘブライ9章1-28                    2016.6.19
 旧約時代、エジプトを出て荒れ野を旅した当時、神がモーセに現れ指示して建てられた幕屋は、第一、第二と二つの幕屋があった。第一の幕屋、これは聖所と呼ばれる所があった。そこには、燭台、供え物のパンを置く机が置かれていた。第二の幕屋、これは至聖所と呼ばれ、そこには、金の香壇、金で覆われた契約の箱(箱の中にマンナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板2枚)箱の上には翼で償いの座を覆う栄光のケルビムがあった。
 第一の幕屋・聖所は、祭司たちが絶えず出入りして礼拝を行う所で、その都度、燭台を整え香を焚き、供えのパンを替える。第二の幕屋・至聖所は、大祭司だけが年に一度だけ(7月10日の贖罪の日)入ことを許され、大祭司と民の過失のために捧げる血を携えなければ入ることが許されない。第一の幕屋は、供え物、犠牲は捧げられているが、礼拝する人の良心を完全にすることができない。何故なら供え物、犠牲は、食物・飲物、種々の洗い清めに関するものでイエス・キリスト再臨による完成の時まで有効な肉体の規定に過ぎないからである。
 イエスは神の御計画、意志によって、この世にお生まれになった。それは、今まで述べて来た第一、第二の幕屋、聖所・至聖所のように、人間の手で作られたのではない。この世に無い、人の手で作られたのではない完全な幕屋を通り、更にまた、雄山羊、子牛の血をもってではなく、イエス御自身の血をもって、ただ一度限り至聖所に入り、永遠の贖いを得られたのであった。十字架に登りイエス自身を捧げた。  
 血は生命維持に不可欠であり、古代イスラエルの思想では、血は生命を守るもの、生命を宿すものと考えた。人が神と契約を結ぶ時、それを確実にするものとして、犠牲獣の血が祭壇と人に注ぎかけられた。イスラエルが奴隷状態であったエジプトから救われた時も、小羊の血が解放をもたらす重要な役割を果たす。主が裁きを行う時、小羊の血を家の入口の2本の柱、鴨居に塗り、その血を見たらあなたたちを過越し、滅ぼさなかった。(出エ12:7、12-13)
 神は、イエスを犠牲として、人々に罪の赦しを与えられた。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ3:25 P277)
 大祭司は年に一度、至聖所に入り、動物を携え、血を捧げた。(7節) 一方、イエスは西暦30年十字架上で命を落とし、自らの血を捧げた。(12節)
 イエスが十字架上で死を遂げた時、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マタイ27:50-51 ) これは何を意味するのか? イエス・キリストの死によって、聖所と至聖所と言うものがなくなった。全ての人が神の所へ直接行き、神と相対することができるようになったのである。イエス自身の捧げ物は、わたし達の罪が取り除かれた福音である。
 私たち日本人は、罪の感覚が鈍い。神社に行けば、「おはらい」と言うものがある。人間の罪の汚れを川へ流せと教えている。流してしまえばよい、悪いことを流したらよいという考えである。神社で手を洗うのもそうである。罪に対する人間の責任と言うものがない。聖書は、血を流すことによらなければ、罪の赦しはない、と教える。血を流すとは死である。死ぬことは最大の責任の取り方である。 
 なぜそれほど罪を考えるのか。それは人間が神により創られ、罪は創り主である神に対する反逆だからである。神に創られたものが罪を犯すことは、神に対して責任があるわけである。だから神はそれを責められる。ところがその責任を負ってくださったのが、イエス・キリストの十字架の死であった。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) 
▢まとめとして
 神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことにより、全ての人が直接神とお会いできるようになった。それは、イエスキリストの十字架上の死の瞬間、同時の出来事であった。これは、イエスの愛、神の愛が人類に表された画期的な出来事であり、新しい契約=新約聖書の始まりである。「最初の契約」(旧約)から「新しい契約」(新約)に移った。同時にこの時から罪赦された者として、神、キリストの愛にどうこたえるのか、われわれキリスト者の信仰生活が常に問われている。