ー清水聖書集会の紹介ー

❖はじめに

 1970年頃より、清水駅前石原新聞店2階において、店主である石原正一(1917~2010)がそれまで参加していた静岡聖書研究会から独立し、父のために家庭集会を持たれたのが始めです。父が召されてのち「清水聖書集会」とし、市内のキリストを信じる者が一人、二人と集まり現在に至っています。石原正一が初代代表を務めて以来、元木岩夫、保科新吉、そして現在の西澤正文へと引き継がれています。
 毎週日曜日の午前10時から1時間30分、司会の祈りから始まり、共に賛美し、講話担当が聖書のお話をし、祈り、賛美をもって終わります。講話担当は聖書を中心に分かりやすい話に心掛け、適宜身近な体験を取り上げ、聖書の教えが日常生活の中でどのように生きているか、具体的にお話しするよう努めています。
 礼拝の後、お茶を飲みながら日々の暮らしの体験や楽しかったこと、悲しかったことなど気楽におしゃべりする時を大切にし、時には悩みなど打ち明け、共に祈る時もあります。
 ただ聖書と神様のみを頼りとし、信ずる者、信じようする者の集まりです。


❖集会の精神

  私たち人間は元々罪深く、自己中心で貪欲な者です。聖なる者を目指し、自分なりに一生懸命努力しても完全な者になれません。ただ、イエス・キリストの十字架による贖いによってのみ我々の罪が赦されます。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマの信徒への手紙3章) この御言葉のように、罪を赦され、神の恵みをいただくために、私たちの為すべきこと、それはただキリスト・イエスに連なることです。
 私たちの大切にしていることは、霊と真をもって心からキリスト・イエスを受け入れ、信じること、このひとつに尽きます。そのために、誠実な心、静かな心で聖書の御言葉に耳を傾けることをとても大事にします。あくまでも、神中心、聖書中心の集会です。
 この精神を重んじるのが無教会であり、世に説いたのが内村鑑三であります。次に無教会を紹介します。


❖無教会につい

  内村鑑三の集会に参加し、内村の信仰を継承した内の一人に政池仁がいます。政池は無教会について解り易く説明していますので、政池の言葉により無教会を紹介します。

◆「無教会主義を一言でいうならば、イエス・キリストの十字架の死による人の罪のあがないを徹底的に信じることにある。言いかえれば「人の義とせられるのは、律法の行いによらず、信仰のみによる」(ローマの信徒への手紙)ということを信じぬくことにある。これに徹すれば、自然に、バプテスマとか、聖餐とかいうものが救いの条件として必要であるとは言えなくなる。」
◆「無教会主義から十字架のあがないの信仰をとりのぞいたら、残るものはゼロである。無教会主義は十字架教である。‥‥毎日、罪の悔い改めをして毎日十字架をあおぎみるのである。」 

  このように、私たちは罪赦された者として、十字架上のイエスを仰ぎみることを大切にします。罪深き者、弱き者であることを忘れず、イエスと共に歩むことを目標とします。