詩編95編             2014.10.5

 

テーマ:主を賛美しよう

 

1-3)主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよ 主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。

 

主に喜びの叫びをあげよう、只喜ぶのでなく、叫びの声を上げて喜ぼう、心から全身から大いに、目いっぱい喜ぼう。それ程、主はわたしたちにとり偉大なお方、全ての上に立って臨まれるお方である。

 

4-5)深い地の底も御手の内にあり 山々の頂も主のもの。 海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。 わたしたちを造られた方 主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民 主に養われる群れ、御手の内にある羊。

 

主は天地を創造された方、私たちの目の届かず見えない地の底も、山々の頂上も主の御手によりつくられたもの。海も陸地もそうである。もちろんわれわれ人間も一人ひとり主の御手によりつくられ、この世に生を受け誕生したのである。今改めて天地万物の創り主であられる主に向い、改めて感謝しよう。主はわたしたちの御父、私達は御父の子供である。主の安全な御守りの中で、主に委ね何も心配することもなく何不自由することもなく安心しきって伸び伸びと生活することが出来る。丁度牧場に放たれた羊のように、青草生い茂る牧草を食べ、絶えることないせせらぎの水が用意された牧場で養われているようである。私は何も不自由することなく平安に憩うことができる。これほどの喜び、満足があろうか。わたしたちは丁度、飼い主の懇ろな御守りにより広い牧草の中でゆったりと生活する羊の群れのようである。

 

7-8)今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した  四十年の間、わたしはその世代をいとい 心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。 わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」

 

今日こそ、主の御声に耳を傾け、生まれ変わらなければならない。日々新しい朝を迎える毎に、新しい心を備えられ「今日こそ」の思いで主に向き合わなければならない。今日の日は昨日の人は全く違う日である。真っ白な日が目の前に待っている。襟を正し、謙遜な心で主の御声に耳を傾けよう。主への信頼は御言葉を聞くことから生まれる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10:17)  イスラエルの民が、エジプトを離れカナンの地をめざし、旅を続けたその最中にあって、誘惑に陥り、主への信頼が揺れた。飲み水が無いと民衆がモーセに不満をぶつけ、モーセは苦境に立たされた。二言目には「なぜ我々をエジプトから連れ出したのだ、エジプトに残っていれば、こんな苦労はしなくて済んだのに」と攻撃された。モーセは絶えず主に祈り、悩みを訴える。主と共に歩むモーセ、苦難に顔を歪めるモーセの姿が浮かぶ。民衆の不満を一身に受け苦しんでいるモーセに対し、主は見るに見かねて、支援の手を差し伸べ、言う。「わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。モーセよその岩を打て、そこから水が出て、民は満足する」と。主の義は、その場その場の状況で左右されないことを示す。主の義はぶれない、どこまでもその義を貫き通す方である。

 

まとめとして

 

1.地上の真の支配者は主である。我々が住む地球を創造された方、天地創造された方である。よって主は、人間の目が届かない山頂や海底などもすべて支配されている。いつ火山が噴火するのか、主の御手の中にある。いつ地震が起こるのか、それも主のみての中にある。

 

2.主の御手、支配の中で生活すれば心配もいらない、平安が保障される。このことを来る日毎に思いを新たにし、来る日毎に謙遜な心で過ごさなければならない。平安ボケをしてはいけない。主は、常にわれわれ一人ひとりの主に対する姿勢、主を信頼する一人一人の信仰を見ておられるのである。

 

3.悪の誘惑に負け、主の御声に耳を閉ざしたり、主を忘れたり、疑ったり、離れたり、自分本位の生活に陥る人は、最後に必ず裁かれることを忘れてはいけない。天国に入る前に、入口で主の評価、裁きが待っている。