12章1-25      2019.11.17
                         西澤 正文
テーマ:教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。(5)
1-19 イエスの使徒、ヤコブの死とペトロの救出
 ローマ皇帝は、ヘロデ王(ヘロデ大王の孫)に、ガリラヤ、サマリア、ユダヤを含むパレスチナの広範囲を統治させました。ヘロデ王は、ユダヤ人指導者たちの機嫌を取るため、キリスト教信者を迫害し、それによって地位を強固にしようとしました。迫害の手は、イエスの12弟子にも及び、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で首をはねました。その殺害行為がユダヤ人に喜ばれると、気をよくしたため、さらにペトロも捕らえました。
使徒ヤコブは殺され、サウロは捕らえられ牢に入れられた、絶体絶命の窮地に陥っても、諦めないで主の救いを求める祈りが捧げられました。
 この祈りの姿勢は、この世のキリスト者の生き方を示しています。たとえ絶望の淵に追いやられても、絶対諦めないのがキリスト者、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリントⅡ4:8-9 P329)
 牢の中の天使がペトロに、7:急いで起き上がりなさい、8:帯を締め履物を吐きなさい、8:上着を着てついて来なさい、と続けて3回命令しました。するとペトロは、3回の命令に対して素直に従った。そして、外に出ることが出来ました。 
 この一連の出来事が何を私達に示しているのでしょうか? 天使を通しての主の言葉は命令形で「なさい」であり、相手の応答を求めます。私達は、命令を避けたいために「なるほどな」と第三者的に聞くことが多い。主の「なさい」は、「あなた」に向かって話され、あなたを正面から見詰め、あなたの行動を待たれます。ヨハネ

 

 

 

 

 

福音書で復活したイエスがペトロに「私を愛するか。羊の世話をしなさい。」と三度、繰り返した後、「私に従いなさい」と命令され

ました。主は、常に私たちに従うか、従わないか、の二者択一を迫られました。
 主により救い出されたとわかったペトロは、ヨハネの母の家に直行しました。ペトロがヨハネの母の家に直行したのは、親しい関係にあったからであり、さらにその家では常に信者が集会をし、祈りの場であったからです。今、自分のために祈っていることが予測できたからでしょう。家の女中が、ペトロの姿を見ない内から門をたたく声でペトロであると確信し、それが本当であったことから、ペトロがこの家に前々から出入りしていたこと、この家が祈りの家として用いられていたことが理解できます。
■むすびとして
 祈りの力は計り知れません。信者たちの祈りは、彼らが丁度祈っていた時に応えられました。しかし、ペトロが戸口に到着した時、彼らはそれを信じませんでした。主はその力を表そうと、時に人間を絶望の淵に陥らせます。すると主は人間の力ではどうにもならない絶望に立たされた時、主は救の御手を延ばされます。また、主は、他人の為の祈りを喜ばれ、応えてくだいます。他人のための祈りは、自分の利害から離れ、遠ければ遠いほど冷静に祈ることができます。他人の病が癒されますように、苦難が除かれますように、と祈る祈は、神が最も喜ばれます。初代の教会において、このような祈が如何に盛であったかは、ペテロが捕らえられた時、集会所において多くの人たちが祈られたことに心に刻みたい。