マタイによる福音書5章1-16      2023.2.12

西澤 正文

テーマ:心の貧しい人は、幸いである。(3)

 イエスはカファルナウムの近くの山に登られ、その中腹で話された。3節からのイエスの教えは、およそ私たちの普通の考えからかけ離れ、逆説的な内容ばかりです。

 「貧しい人が幸いである」など、およそ考えられません。そのようなことを言ったら気が狂っていると思われてしまいます。富んでいる人が幸いであり、貧しい人は不幸です。それがこの世の道理です。悲しんでいる人より喜んでいる人が幸いであり、強い人が地を継ぎ、弱い人、柔和な人はいつの時代でも社会の片隅に追いやられます。憐み深いことをばかりしていれば人生においてけぼりされ、心の清さばかりを求めて生きれば社会では相手にされなくなります。

 しかし、イエスが登場すると今までまかり通っていた世の道理が逆転しました。イエスは社会の片隅でひっそり生活していた貧しい人に「幸いである」といって光を充てられました。「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである」と。

 

 

 イエスは、「貧しい人」「病気を抱えた人」「障害を持たれた人」「社会から敬遠された孤独な人」「罪に悩む人」などのところへ行かれました。誰も相手にされず、ひっそり耐え忍ぶ人のもとに行かれ友達の如く手を差し伸べられます。イエスはこのような人を求めておられる。イエスが行けばそこに光があたり、幸せが訪れるのです。

▢むすびとして

 イエスの言われる心が貧しい人とは、どのような人でしょうか? 自分の中に頼るべきもの、誇るべきものが何もない人です。自分の中に頼るものが何もない人は、神のみ前で、最も素直に、謙遜になりやすい人です。神の前で頭を垂れることの出来る人です。自分の中に奪われるものが何もない。守るべきものが何もない。ここに心の貧しい故の幸福があります。天国はその人たちのものとは、この世の所持金品を持たず、手ぶらな人が入れるところと言う事です。天国は、所持金品持込禁止であり、手ぶらでなければ門の中に入れません。