コリントの信徒への手紙Ⅱ4:1-18               2017.10.8
テーマ:わたしたちは、自分でなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝える(5)
・キリスト教の主役は、神、イエス・キリストであります。キリスト者は、神から一人ひとりに与えられた御恵を感謝し、生活の中でその喜

 びを表現しつつ生きている、と言えます。自分のことを語るのではなく、キリストそのものを語る。それが出来るのは、わたしとキリスト

 が一体になる事で、自分の中にキリストを迎え入れ、キリストが私の内に生きることでしょう。
・そうは言うものの、実生活では中々できません。以前、私は2回ほど、証しする機会がありました。証しする私が、主役となり、神、キリス

 トが脇役で終わってしまいました。自分の歩んできたことばかり語ってしまい、中々神、主イエス・キリストを語ることが出来ませんでし

 た。体験をキリストまで掘り下げて話すことが出来なかったのです。自分の歴史を語っても、聴く人は「ああそうなの」で終わり、余り関

 心は持てません。本来なら、今まで歩んできた道とは別の道、信仰に導かれた道を語らなければ、例えば、御恵の実感(キリスト者との出

 会い等)や感謝、感動、喜び、生活がどう変わったのか……、人を思いやる気持ちが深くなったとか、祈る回数が確実に増えたとか、鏡に映

 る自分の顔が柔和になったとか、自然に親しみ、散歩する機会が増えた、自然の景色を眺めることが多くなったとか……、生活の中で具体的

 な出来事を披露してこそ証になる、そのように思いました。私自身の信仰の弱さ、未熟を証したようなものでした。 
・使徒パウロは、きっぱり言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありま

 せん。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と。(ガラテヤ2:19-20) 使徒としての立場、任務を自覚されて、謙虚

 に、力強く語りました。
・また、パウロは「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(5b)と、低い姿勢を明かにします。私は、神、

 キリストに大切な命を預ける僕であることを表明できるパウロに敬服するしかありません。 
🔲まとめとして
・キリストを信じる一人ひとりが、わたしの宝(私の具体的な恵み)は何か、としっかりと整理し、心に留めたいものです。 
・キリスト教の主役は、神、救主イエス・キリストです。貧弱な私たちはそれを持っているにすぎないものです。わたしたちの立場をわきま

 え、謙虚さを忘れないように信仰生活を送りたい、と願います。