2019.9.15    創世記18章1-17節    小田 弘平

 アブラハムは主の契約を受けて以来、天幕の入り口で座るのが慣例になっていた。なぜアブラハムは天幕の前で座るようになったのだろうか。

 

確かに自分は主の言葉に従って今日まで歩いてきた。故郷を捨て、父の家を捨て、旅人として歩いてきた。今日までの旅を支えてくれたのは主の言葉だった。しかし、アブラハムは  家庭内の問題に目が向いてしまう。アブラハムが妻サラの提案で、女奴隷ハガルによって長男イシュマエルが与えられて以来、家庭内には不和と争いが日常茶飯事となっていたのだ。それではいけない、そう思って、家庭内のことは横に置き、初心に帰ろう、「天国を目指して旅人として生きよう」と自分に言い聞かせるように、アブラハムは天幕の入り口に座り、外を見つ続けた。入り口に座るとは(家庭内の問題を背後に置くことになる)。天幕の入り口に座るとは神を仰ぐことだった。

 

アブラハムは自分は主の言葉に従って生きている旅人であることに気づくと、これまで見過ごしてきた旅人の苦労にも労うようになってきた。ところがある日アブラハムの前 

 

 に三人の旅人が現れた。アブラハムは一家を挙げて旅人をもてなすが、このもてなしにただひとり、サラは加わらなかった。

 

しかし、旅人は「あなたの妻サラはどこにいますか」と尋ね、そのうえ、「あなたの妻サラに男の子が生まれる」と言った。この言葉を聞いてアブラハムはこれは先に主が契約を結ばれたときに言われた言葉であることを思い出し、話している人が主であることに気づいた。妻サラはこの会話を天幕の中から冷笑しながら聞いていた。ところが主はサラが冷笑していることを見抜き、「主に不可能なことがあろうか」と言われた。こともあろうに、サラは笑わなかった」と天幕の外に出て否定までした。

 

この部分を私たちはどう読めばいいのだろうか。人間の愚かさがあっても、一度契約を結ばれた神は必ず、契約を実行されるということだ。天地の創造主である神は私たちの個人的なことまでも、責任を持ってくださる。神は約束を守られる「主に不可能なことあろうか」とまで言われる愛の神である。