ルカ11:37-54                 2018.9.9
テーマ:外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。(39)
 律法学者、ファリサイ派の人々を非難する内容は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に登場するが、話の対象は、私達に対する教えでもある。「群衆と弟子たちにお話になった」(マタイ23:1)手を胸に当てて考えれば、誰にも当てはまる内容であることである。「彼らの言うことは、すべて行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」(マタイ23:3)イエスは、「彼らの言うことを聞きなさい、真実を言っているから。ただやっていない」と言う。イエスのファリサイ派の人々に対し、事実を述べ、そこから彼らの悔い改め、救いを勧めていて、イエスの心の広さを改めて知る。
 この箇所全体に共通することは、39節の「外側」と「内側」の違い、外見と内面、言う事と行う事の不一致であろう。外側を整え内側が整うのでなく、内側をいい加減にして外側を整えようとする欠点を示している。 
〇ファリサイ派の人々に対して。(4点)
・外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
 外部を綺麗にし、外見を立派にしても、心の内部まで綺麗にならない。反対に心の内部が清いなら、たとえ外見・外見が綺麗でなくても、

 外見もみな綺麗なものに映る。 
・1/10のささげもの。
 律法を守ること(レビ27:30P209)に熱心であること、それはそれでいいこと。しかしそれよりもさらに大切な正義、公平、神に対する愛

 をいい加減にすることは誤りで、大切な事を棄て枝葉を重んずるのは罪。
・上席に座ること、人前で挨拶されるのを好むのは、虚栄心の現れ自己満足の世界。
・人に避けられ、穢れていることに気が付かない人。
〇律法の専門家に対して。(3点)
・人に重荷を負わせ、自分は触れもしない。
・先祖が殺した預言者の墓を自らの手で建てている。
・知識のカギ(キリスト)を取り上げ、自分は入らず(信じようとせず)、入ろうとする人(信じようとする人)をも妨げる。
 これ等全てに共通するのは、「外側」と「内側」の格差があること。「外側」は人間、「内側」は神であり、私たちは普段、神(内側)を意識するよりも、人(外側)を意識することが多い。信仰、信仰、と言っていても実際の心の有りようは、人ばかり気にしている実際の姿を直視せよ、の教えである。従って、パリサイ人、律法学者を相手に言っているようであるが、実は、我々に向かって言っている、と考えなければならない。
▢まとめとして
 欠点を指摘されるとき、私たちは自分を切り離し、私には関係ないと思うことが多い。しかし冷静に欠点の内容を考えると自分自身に関係し、反省しなければならないことに気づかされる。嫌な話は、時分とは関係ないことと切り離す合理的な割り切る態度を改めねばと思う。