ヤコブ3:1-18                                                                2016.3.6
舌を制御できる人は一人もいません
    ヤコブは、「舌は火であり、不義」(6)とはっきり言う。普段の生活を思い返せば心当たりがある。「ああ、あんなこと言わなければよかった、ああ、ひどいことを言ってしまったな」と後悔することがよくある。皆さんは如何ですか? 多少なりともそのような経験はあるのでなないでしょうか。
    また「舌は、制御できない」とも言う。私自身、日々の生活の中で、舌を制御できないと感じることがある。その日により、言葉が滑らかに出る日、出ない日、思っていることと違う表現の言葉が口から出てしまう日もある。何でこんなことを言うのだろうか……と。そんな時、「ああ今日はまずいぞ」と思い、多くを語らない方がよいと注意する。しかし、そう思うのもしばらくの時、すぐ忘れてしまうのである。
「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。」(9-10)人間の舌は、2枚舌である、と言っているのである。そこまで言わなくても……、と思うが、自分自身を振り返ってみれば、二重人格の自分を認めざるを得ない。人にひどいことを言ってしまう同じ舌で、今度は、神を賛美し、また、呪うという、相反する二つのことをしてしまう ここに人間の身勝手さ、自己中心的な面が現れている。私たち人間は絶えず二枚舌を持ち合わせている醜い生き物。この事をしっかり認めなければならない。
    3章の主題は、「舌を制御(コントロール)できる人は、一人もいない」である。それならどうしたらよいのか? 3つあるように思う。
先ずは、沈黙の時間を作ることだ。舌から生まれる災いから自分を守るのは、沈黙である。神のか細い御声に耳を傾けることが必要である。神の御声をお聞きするには、ひとりの時間、沈黙の時間、このような環境を創り出す、言うなれば“信仰生活の戦い”がどうしても必要となる。イエスの戦いは、祈りの時間の確保にあった。
   「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。…イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。…朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:32-35)
 次に、舌の災いから遠のくには、感謝の人になることである。「感謝、感謝」を口癖になる人になりたい。小さな事にも「ありがとう」と素直な気持ちを言える人になれば、相手を傷つける言葉も自然と少なくなるであろう。
最後は、イエス・キリストの御言葉を心の引き出しに沢山しまうことである。日常生活
の中で苦しい時、助けを求めたい時、悲しい時、嬉しい時等など、神、イエス・キリストが話された言葉を思い出し、御言葉と共に生活できる人は、サタンからの誘惑からも守られる。御言葉を思い出しては、神、キリストにお会いする生活を送りたい。

▢まとめとして
 キリスト者にとり、人生の最大の導き手、水先案内人は、イエス・キリストである。困難に直面した時、イエスは何とおっしゃるだろうか……、御言葉を思い出せばいい。また、日々の生活の中で静かな時、祈りの時を確保し生活することが何よりも大切である。