人よ、悟りなさい―詩編49編から―

 

2013年6月16日 松下道子家庭集会にて(長野県・松川町)

 

西澤正文

 

 寝違えてしまったのか訪問日の3日ほど前から首から右肩にかけて強烈な痛みに見舞われ、首を動かすことが出来なかった。それでも徐々に痛みは薄らぎ首を上下に動かさなければ痛みを感じることもなく、自動車運転も大丈夫と思い、当日朝5時、出発時刻を迎えた。車庫から50mほど走るとエンスト。前日もエンジンが止まり嫌な予感に襲われたが、今、それが現実のものとなった。4月末の定期点検を終えたばかりであったのに‥‥。家に引き返す途中で再度ストップ。時間の経過が気になり、急きょ妻の自動車を借り、くよくよ考えても仕方がない事と後を振り返らずアクセルを踏み続けた。富士川沿いに出て時計を見ると6時30分、予定より1時間遅れであった。ただひたすら運転を続け、9時30分中央自動車道・松川インターに到着。少し時間があったため、一通り原稿に目を通しておこうと町営観光案内所駐車場に車を止めた。カバンを開けたが原稿が見当たらない。必死に探すがない。“まさか”がここでも現実のもとなった。家に置き忘れたのであった。残り15分間で何が出来るのか‥‥、聖書を読み、祈る時間に充てた。すると少しずつではあったが、原稿の内容を思い出し、10行ほど書き留めたメモを用意し玄関に立つことが出来た。

 

身体と自動車の故障、原稿の不携帯、立て続けに3回のトラブルに遭い、神から「語る資格なし」の烙印を押された弱気な思いを吹き払っての訪問となった。今年の参加者は遠く千曲市から松下姉の娘様の関夫妻も含め8名の参加であった。今回、詩編49篇人生最大のテーマである「死」について語った。 

 

 死後の世界はどのようなものなのか、人は誰も確かめることが出来ない。時々天に帰られた親しい兄弟姉妹に「そっと内緒で教えてくれませんか」と聞いてみたくなる。聞けば「それはこちらに来てからのお楽しみ」との声が返ってくるだろう。近年、私は決まって年に1度、風邪が治り切らず身体全体が激しい倦怠感に包まれ仕事を休むことがある。2階の部屋で昼間から一人布団にもぐって寝ている時、「自分はなぜ今、こうして寝ているのか‥‥、ひょっとしてこのまま布団から離れられず、数日後には天国へ行ってしまうのではないか」そんな思いに包まれる。するとまだやり残したことがある、まだ死にたくない、死ねない、と死の恐怖に居ても立ってもいられないどうしようもない孤独に襲われる。風邪で仕事を休む時間は、死の恐怖に怯える弱い自分の姿を見詰める時間となる。

 

 詩人は、冒頭でこれからあらゆる民族・国籍を超え、また貧富の違いに関係なく、すべての人々へ神に教えられ自分なりに思索を重ね、英知を結集し確信するところを語るのでしっかり聞いてほしいと訴える。

 

 この世は、富を蓄えその力の大きさを誇り、他の貧しい人々を見下すような人々が現れる。しかしそれがどうしたのか、と詩人は語りかける。確かに富の力により、物、名誉、名声など得ることはできる。しかしその富の力は神には通用しない。魂は金では買うことが出来ない。人の力では魂を救うことが出来ないのである。魂の救いは神の範疇に属するもので、金では換算できないとてつもなく尊いもの、金を払い続けても払い終えるものでない。人生の目標を金儲けとし多くの富を築いた金持ちも、また着の身着のままの貧しい者でも、例外なくすべての人は必ず死ぬ。誰も死を回避することはできない。

 

以前、私の友人であり詩人であり書道家から、自作であり自筆の色紙「旅はどこかで終わる そのどこかのために今日も旅する」を頂いた。人は皆、神により定められた死ぬ日に向かい今を明日を明後日を生きている、この色紙を見る度に私にそうに語りかける。

 

 わたしの母は95歳、今も元気に一人暮らしをしている。介護サービスを受けることなく、天気の悪い日の朝などは、忙しい時間もお構いなく子供の家に「傘持って出掛けた方がいいよ」と嬉しいような嬉しくないような電話を掛けてくる。そんな母であるが、50代そこそこで夫を亡くした母は、母なりに経済的に苦労した。金の尊さをいやというほど味わいつつ生きてきた。「死んでもお金は天国に持っていけない、元気なうちに使わなければ」が口癖であった。もう10年ほど経つであろうか、「生きているうちに子、孫の喜ぶ顔が見たい」と、少額であったが名前・寄せ書き入りの封筒に母なりにコツコツと貯めたお金を入れ、子ども6組夫婦、孫13人、ひ孫1人、計26人に手渡したことがあった。この母の行為は、「死ぬときは、何ひとつ携えていくことができず 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない」(18節)の御言葉に従うものであった。

 

 富の力、名誉の力が及ぶのは、この世だけのこと。この世を離れればまったく影響力は消える、そんなむなしいことに心を奪われるな、その人はきっと死を迎える時、言いようのない淋しい気持ちになるであろう。そんな淋しい気持ちでこの世を去ることなく、今から神に心を向け、信仰によってこの世の誘惑に心奪われることなく生きなさい。詩人は切々と語る。そして更に続けて語る、「神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」(16節)と。この御言葉は49編全体のキーワードである。神の専売特許である「魂の贖い」をしてくださると言う。神は、神を信じてこの世を去った人を覚えていて、死者が集まる世界に神自らが手を差し伸べ、滅びの世界から一人ひとりを救い出してくださる。この16節の言葉は、この世を生きる私たちの希望であり平安の源泉となる。

 

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」(ヨブ記1:21)天国行きは手荷物携帯禁止区域である。手ぶらで行くところである。そして地上生活を通してどれほど天に宝を積んだのか、天に帰って報告を聞かされるところである。死を恐れず、その背後に魂を贖ってくださる神様が両手を広げて待っていてくださることを信じ、信仰生活を送りたいと願うばかりである。 

 

(関姉)

 

 日々の糧を与えられ生活が出来れば良いと思う。昔母(松下道子)は困っている人がいれば、家が苦しくても差し上げてしまう人でした。財産、富は心の問題で、人のため神のために使うことが出来れば素晴らしい。与えられたお金をどうやって使うかがが一番大切、神に喜ばれるために使いたい、今日の話をお聞きしながらそう思った。

 

(関兄)

 

 ルカ19章に金持ちで人々から嫌われていたザアカイの話がある。このザアカイがイエスに声を掛けられたことによって、神に出会うことができた。このことによりザアカイの価値観が逆になった。神との出会いが金に執着する古いザアカイから新しいザアカイに生まれ変わることができた。これは素晴らしいこと、改めて神の力の大きさを感じた。