人の子がこの世に来たのは……
                                                                                                                                                   -マタイによる福音書20:17-34より-      2015.9.27
イエスは、ここで三度目の受難予告をした。しかも前2回とは異なり、詳しく説明した。   祭司長、律法学者に引き渡され、死刑を宣告され、異邦人の手に渡され、侮辱され鞭打たれ十字架につけられ、そして3日目に復活することを。それは、十字架につくことが目前に迫ったからである。
 この様な切羽詰まった深刻な話をしているにもかかわらず、12弟子であるヤコブ、ヨハネの母が、イエスと肉親関係を利用し天国で子供達の高い地位の保障をイエスに直訴し、それを聞いた他の弟子たちが、反発を訴えた。
 他の弟子10人に反発心があることは、自分たちも同じような欲があることを表わす。  そのことは十分わかっているイエスは、異邦人の社会(ローマ帝)の例を上げ、この世の支配者が如何につまらぬものであるかを諭す。
神の目からすると、人の上に立つことは低いことであり、人のためになること、人に仕えること、人の僕(=奴隷)になること、それが一番尊いのである。天国はこの世の価値とは、全くさかさであって、高いことが低く、低いことが高いところである。パウロは言った。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8 P363)
 「また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28b)と、聖書中、イエス自身が「身代金」(あがない)の事を言われた唯一の場所として有名であると言われ
る。あがないとは、人の生命の代わりに自分の生命を与えることである。イエスが盛んに弟子たちに「人に仕えること」の尊さを伝える。
イエスは、神の命令を受け、目前に迫った十字架に架けられ死ぬ運命、大きな使命、精神的、肉体的苦しみ、痛みに包まれているにもかかわらず、この究極は自分の生命を与えること、差し出すことと説くのである。
 一方、弟子たちは、イエスの死を深刻に受け止めていない。まだ、イエスの運命が目前に迫った現実の事として理解できていない。神の国での自分たちの地位が気に出したり、イエスの人間にはない力、業により神の国を建設される期待が膨らみだしたり、そわそわ、ふわふわと落ち着かない。両者の心の中の違いがはっきり映し出されている。
 「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26-28)
むすびとして
・自分本位の欲望を抱えては、イエスの御心は解らない。また、イエスはそのような人に慈しみを注がない。神を愛する、隣人を愛することのできる 

    人とは、「自分」という意識を心の底に沈めたままの人である。
・低い姿勢で生活する人は、イエスの姿が見やすい、またイエスの御力、御業、御恵みがいつまでも強く心に刻まれる。自分中心でなく、自ずと、神、

    イエス・キリスト中心の生活となる。