クリスマス講演会

                                      西澤正文

開催日の12月20日は天気予報が当たり、午後の開催時刻に合わせたかのように本格的な雨が降り出した。肩をすぼめ、マスクを着用した人々30余名が会場に集った。初めに西澤が「天に栄光、地に平和あれ」と題し話した。

               「天に栄光、地に平和あれ」

□最近の感動

毎年12月、清水区内の教会、聖書集会主催による「市民クリスマス」が開かれ、今月5日に「レーナ・マリアコンサート」が開催されたばかりであった。この女性は、スウェーデン出身で、出生時から両手が無く、両足の長さが異なるという大きなハンディを持つ。しかし信仰を与えられ、全く普通の日常生活を送られる。水泳、音楽等の才能が開花し、最終的に歌で生きようと決意され、今ではアジアで何百回のコンサートを開催、日本にも50回余開催。マリアの十八番というべき「キリストには代えられません」の歌詞が、自身の人生と重なり、感動を新たにした。

「1 キリストには代えられません この世の宝もまた富も 

この御方がわたしに代わって死んだゆえです 

(繰返)世の楽しみよ去れ 世の誉れよ行け 

キリストには代えられません 世の何物も 

2 キリストには代えられません 有名な人になることも 

人のほめる言葉も この心を引きません 

3 キリストには代えられません 如何に美しいものも 

この御方で心の 満たされてある今は」

 この世には、キリストを置いてそれに代わる価値はない。宝である家族、夫・妻、子供、金や財産、この世のひと時の楽しみ、人による評価、表彰等の誉、この様なものは去れ、離れよ。わたしはキリストが居ればそれで充分だ。キリストとつながっていれば、平安であり平和である。流行り廃りが激しい有名人になること、人間関係の利害に絡む純粋でないほめ言葉もわたしの心に響かない。私に代わって死んでくださったキリストが居てくだされば何もいらない。

このイエス・キリストが語られた言葉の中から、今回「山上の説教」の一部を学んだ。

□思い悩むな マタイ6:25-27,31-34 

命のこと、体のことで心配しなくてよい。命と体を与えられた神は、必ずその人に必要なものを与えられる。鳥や花は心配もせず、働きもしない。それでも立派に生きている。 だから心配は不要である。悩んだとて人間は無力であり、心配したからとて命、体は改善できない。

人間は、創世記の天地創造の中では、特別な存在として創られた。6日目の最後に想像さ

れた。空、陸上、海、鳥、魚、植物、動物の創造を終えた神の言葉は「良かった」、それが

人間を創造し終えて語った言葉は「極めて良かった」であった。このことからも、神は空

の鳥、野の花以上に心を止められていることは、容易に想像できる。

この世のもの=衣・食・住に関して心を動かされるな、虜になるな。あなた達には天の神がいらして、このようなものは皆あなた達に必要であることがご存知である。あなた達は、神を信じない人たちのように自分で心配する必要はない。無駄な心配をして自分で自分を苦しめている。これは単に無駄、不必要であるばかりか、不信仰であり、神を信じない異邦人に転落することになる。あなたたちに必要なことは、ただ神の国を求めること、これが生活問題の最良手段である。イエスは朗々と弟子達、群衆に説いた。

イエスの最大のメッセージは、「先ず何よりも積極的に神の国、神の義を求めよ」この一語に尽きる。神の国とは、神が王として神の恵み、力により支配されるところである。神の義とは、神が人に求められる相応しい生き方、生活 神の御心を求め従うことである。人の努力により達する義ではなく、あくまで神から出る義であり、その義を求めることである。

□主の祈りの中に神の義、国が  

主の祈りの構成に着目すれば、先ず神の国、神の義を求める御名、御国、御心と全て神に関する願いで占められる。その後に祈り手に関する願いが、最小限の食べ物の確保、罪の赦し、身の安全について、低い所から乞い願うのである。特に心惹かれるのは、食べ物は今日一日確保してくださいと、明日の分まで確保を願わない最小限のささやかな願いである。神への強い信頼であり、自身の謙遜である。

□思い悩むなの結び(34節)

明日の分まで先走り苦労を背負い込むな、鳥越苦労をしたところで苦労が減るわけではない、との教えである。「明日は、また明日の風が吹く」と気楽に生活しようということである。大切なことは、神の愛と力を信じ、己を神に任せるか否かである 絶対に神を信じ、すべて任せることである。頭で理解し、理屈で納得して神に従うのでなく、ただ神を信じるか信じないかの単純な決断である。決断できるよう神から力をいただけるよう祈ることである。静かにじっと祈り続けることである。

□まとめとして

神に全てお任せが出来れば、心は地上の問題から解放される。「何故そんなに明るいの」と聞かれたレーナマリアは「わたしは神様の特別な目的のために造られ、神様は良いお方だと信じている」と答えた。レーナマリアの中にキリストが同居し、キリストと一心同体となり生きている。自己中心の生活でなく神中心の生き方に軌道修正すること、このことが、今日のテーマである。地上でイエスを信じる人は、天上の神につながって平安、平和をいただき、その人が地上に一人でも二人でも増えれば、それが天におられる神に届き、天の栄光となって輝く。常に地と天が繋がり行き交う世界であることを祈るばかりである。

 

「栄光と挫折」

渡辺晴季(東京)

 皆さん、この聖書をひと言で表すとすれば、「神は愛なり」を証している書であります。それはイエス・キリストの十字架の購いの事実によって知ります。では愛なる神が何故に私たちに苦難(苦しみや悲しみ)を与え給うのでありましょうか。

①苦難の原因

多くの人は、その原因は人間の罪であると、人は自分で播いたものは自分で刈り取らねばならない。聖書に「罪の値は死なり」とある。確かに一面の真理であると思う。しかし、それだけでは割り切れないものがある。旧約のヨブ記も罪と苦難の問題が取り上げられている。ヨブは正しい人で東の国で一番の富豪であった。しかし一夜にして不幸のどん底に突き落とされてしまった。ヨブ自身も病に苦しんでいた。それを知った三人の友人が憐れに思い、見舞いに来て言った。「お前は何か悪いことをし、罪を犯したに違いない」と、繰り返しヨブを責めた。しかしヨブは納得しないのです。

ヨハネによる福音書には、生まれつき盲人を癒す話が書かれている。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(9:1-3)神の業を神の栄光と言い換えることもできる。主イエスに出会う時、事は180度の転換をすることを私たちは知る。

②苦難の意味

 人は苦難(苦しみや悲しみ)を経験することによって、はじめて他人の苦しみや悲しみに共感できるのではないだろうか。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22:37-40)他を愛そうとするなら、先ず神の愛(十字架の購い)を深く信じ、受け止めなければならない。自分から他を愛そうと努力することは大事だが、神の愛によって押し出されてすることでなければ長続きはしないであろう。

③病まなければ

 ハンセン病患者の伝道に貢献した河野進牧師に「病まなければ」という詩がある。

「病まなければ、捧げ得ない悔い改めがあり、

 病まなければ、受け得ないいたわりの愛があり、

 おお病まなければ、人間でさえあり得なかった。」

 キルケゴールは「新約のキリスト教は受苦の真理である。逆風こそ順風なのだ。」と言いました。

④苦難は人の視点を天に向けしむ

 苦難に遭い道に迷う時、人は天地万物を想像し給う主なる神に向かわざるを得ない。アウグスチヌスは、著書「告白」の冒頭で「人は神に向かって創造されたのでる。従って神の中に憩うまでは平安を得ない」と言った。

また、島村亀鶴牧師は、4歳の子が天に召された時、次の詩を残した。

「汝が心 天に向けよと 吾子召して 主イエスは我をふり返り見る」

⑤栄光と苦難 まとめ

 私は苦難を賛美しているわけではありません。苦難によって挫折する人もいるわけですから。しかし苦難は苦難ですべて終わりではないのです。苦難には必ず栄光が伴うということです。パウロは自分が傲慢にならないように一つのとげ(身体的障害)が与えられたという。彼は三度も取り去ってくださるよう祈った。しかし主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(コリントⅡ12:9)

マルチン・ルターはこの文を「神の栄光(力)は他の何よりも苦難(弱さ)においてはっきりと現される。」と断言するのである。

 私は苦難の後に必ず栄光が伴うと信じる者であります。そう思うと苦難に耐える力が湧いてくるのを覚えるのです。「眠られぬ夜」を書いたカール・ヒルティーは、「偉大なる思想はただ大きな苦しみによって深く耕された人の心の土壌の中からのみ成長する」と言っている。

 イザヤ書53章は、メシア誕生の予言と言われているが、これは人間の思想や考えから生まれたものとは断じて言えない。これはイザヤの予言ではないのである。

 イザヤ書 1-39章:イザヤの予言。

イザヤ書40-55章:第二イザヤといわれ、50年に亘るバビロン捕囚の苦難の中から天より啓示されたものである。

イザヤ書56-66章:第イザヤと言われ、捕囚から解放され、故郷に帰還後の予言である。

私は思うのです。苦難のバビロン捕囚が無かったら、53章は生まれなかったであろうと。歴史の事実がこれを証しているのです。

(結び)

 私は祖国日本の現状を見る時、残念ながら栄光の新しい日本を見出せない。寂しい限りです。しかし、あるとすれば2011年3月11日巨大津波に襲われた2万人の犠牲者を出し、今なお苦難の中に生活している東北の方々、また基地問題などで苦難の中におられる沖縄の方々の中から新しい栄光の日本が芽生えているのではないかと、私は希望を持っている。