マタイによる福音書17:14-27      2015.7.19

14-20 てんかんで苦しむ子をいやす

□イエスと弟子たちが群衆のところへ行けば、そこにいたある人が、イエスの姿を見つけるやイエスの前にひざまずいた。長いこと苦しみ続けるわが子を1日でも早く楽にさせて何としても救ってあげたい、必死な姿勢がヒシヒシと伝わる。

・「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度度火の中や水の中に倒れるのです。」15

□以前、弟子たちは、派遣に出掛ける前にイエスから、汚れた霊を追い出し、病気、わずらいを癒す権能を与えられた。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」(マタイ10:1)しかしどうしたことか、弟子たちはその権能の力を発揮することが出来ず、でんかんの親からはっきり言われてしまった。

・「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」16

□イエスは、ことの成り行きを知らされ、ひどく悲しみ、弟子たちや群衆、そして親の前でいとも簡単に御業を成し遂げた。弟子たちはどうして自分たちはてんかんを治せなかったのかと、素直な気持ちでイエスにたずねた。

・「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」19

□弟子たちは、何としてもお聞きしたい、そしてできることならその力を与えられたい、今まで弟子なりに熱心にイエスの御後に従って歩んできたのにいまだ力が足りない、どうしてなのか‥‥。イエスはここで信仰の多い・少ないではなく、真の信仰、身も心も魂もすっかり神に委ねる信仰の質、それがあればほんの少し「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって『ここから、あそこに移れ』と命じてもその通りになる。」と、弟子たちに説明し、最後に、自分の力でやろうせず、無限の力のある神にすべてに任せればできないことはないと励ます。

・「あなたがたにできないことは何もない。」20

 

22-23 自分の死、復活の予告

□再び死と復活の予告

 マタイによる福音書中、イエスは自身の死と復活を三度予告する。16章とこの17章、そして20章である。この繰り返しの予告は、何を伝えようとするのか‥‥。イエスがこの地上で生を受けた目的は、地上の王になることではない、ということ、このことを弟子たちに分かってもらいたい、群衆のように自分たちの生活の安定を求めるな、との教えでもある。

・「イエスは言われた。『人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』」22-23

 

24-27神殿税を納める

□カファルナウムは、イエスの家がありイエスが住まわれたところである。(マタイ4:13)いわばイエスのおひざ元である。その地でユダヤ人の成年男子が年1度、神殿に納める神殿税を納めるべきかどうかの問題が浮上した。神の子、神を信じるキリスト者のこの世の生き方、いわば信仰の応用問題が浮上した。イエスは、地上の王の子どもを例えにだし、王の子どもは納税免除扱いであることを確認しつつも、イエスが神の子であることを知らない人々を躓かせないよう、柔軟な対応を優先し納税した。「郷に入れば郷に従う」の対応である。小さなものを躓かせないイエスの徹底した態度かここにも表れている。

・「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。‥‥それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」27

 

まとめとして

 神・イエスキリストへの信頼は、自分の力に頼らず、困難、不安、悩み事を自分の肩に背負うことなく、一切合切を神に委ねてしまう事である。神、イエスキリストの力は計り知れず、無限であることを信じることである。