コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:1-31        2023.3.10

西澤 正文

テーマ:聖霊によらなければだれも「イエスは主である」とは言えないのです。(3)

 聖霊を理解するのは簡単ではありませんが、大切な言葉です。我々の目の前には、沢山の賜物、恵みがありますが、その源を辿れば全て神であり、主であり、霊である、とパウロは言います。 

 具体的な霊的賜物を挙げれば、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、異言を解釈する力であり、これら全ての賜物は、同じ唯一の霊の働きであり、霊は望むまま、一人一人に分け与えてくださる、と。 

霊が降る時は、一人でいる時、静かな時です。祈りをする時のような状態の時ではないかと思います。私に聖霊が注がれたと思った体験があります。

 5~6年前、京都で開催された年頭アシュラムに参加しました。この日程なら参加可能だ、そう思い飛び入り参加しました。顔見知りの人は誰一人いない。肩書はいらない。誰一人として、西澤という人間を知らない。ただの一人の人として参加でき

 

る。会場を見まわしてみると、知らない人ばかりで他人への気遣いは必要なかった。人目を気にしないでいられる気軽さがとても心地よかった。身を覆っていた余所(よそ)行きの服を脱ぎ、普段着を着てリラックスした心地よい気分に包まれたこの時、「ああ~これって聖霊に包まれているんだ」と実感できました。これほど気が楽になったと感じたのは実に久しぶりのことでした。

 人の目線を気にしていると、無意識のうちに自己防衛のよそ行きの様な服を着て、防御していることを感じる。今回、聖霊に包まれたのでは…と感じたのはどうしてだろうか? 

 それは、神様が近づき易い環境と言うものがあると思いました。それは、「誰も知らない、静かな所で、一人でいる時」ではないだろうか。ひと事で言えば、祈りが出来そうな場所にいる時ではないか、と。

■むすびとして

 「今、私は聖霊に包まれている」と実感できる環境は、平等に一人も漏れることなく与えられる、そのこと私の小さな体験から示されました。