ヘブライ11章1-40節                 2016.7.24
▢信仰とは……
 信仰は、どこまでも神の約束を信じ進むことである。まだ手に入っていないけれど、すでに手に入ったごとくに生きていくところに信仰がある。今後得られるものを現在既に得られたのもの、見えないものを見えるもの、と受け入れること、未来のことを現在の事としていけ入れることである。その前提として、先ずは神に接近すること、御前に出ること そうすれば神様は喜ばれ、願いを打ち明ければ答えてくださる。「求めよさらば与えられん」である。
 「信仰の父」と言われたアブラハムは、行き先も知らずに出発した。ここに信仰がある。今後得られるものを現在既に得られたのもの、見えないものを見えるもの、と受け入れ、神の言われるままに出掛けられた。一人の人間として見れば、アブラハムと雖も失敗や罪を重ねた。飢饉逃れるためエジプトに下ったが、妻の美しさ故に、夫であるアブラハムが殺されるのではないかと心配し、「私の妹」とうそを言い、難を逃れようとした。(創12:10-) 私達の手本にはならない人である。にも拘らず、アブラハムは、その中で神の約束にしがみついた。失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、尚、神の約束に頼っていたからこそ、彼は「信仰の父」と呼ばれた。 
 旧約時代のアベル、エノク、ノア、アブラハム達は、信仰を抱いて召された。願いが実現しなかったが、神と共に生活したことは、この世ではよそ者、仮住まいの生活者であることを公言した。ここに価値がある。この人たちの目標は、天国に行くことであり、この世ではなく、神、救い主キリストがおられる故郷行きを願い、地上生活を全うされた。ペトロの御言、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(ペトロⅠ2:11)を常に心に刻み生活されたのであろう。
 ここで、アブラハム、モーセ、2人の具体的な信仰を見てみたい。
 アブラハムは、神が人を生き返らせてくださると信じたから、「イサから生まれる者が子孫となる」と言われても、神から「イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命ぜられれば、その通りに従った。神は必ず、イサクを生き返らせてくださると信じたのである。アブラハムの信仰の真骨頂である。
 モーセは、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んだ。罪の楽しみにふけるより、虐待されることを選んだのである。目の前の誘惑に陥ることなく、将来与えられる報いに目を向けた。未来を現在に代えて生きた。
▢まとめとして 
・信仰に生きるとは、どんなことがあってもブレルことなく、神への絶対的信頼を貫き通すとこである。神とその人との約束事とし、神と心

 中することである。アブラハム、モーセは、立場は違っても、神に聞き従った 従っても従わなくても良かったのに従った 2人の道で

 あった。神と心中する選択を取ったのであった。十字架とは、背負っても背負わなくてもよいものを背負うことである そこにその人の信

 仰が証される。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者

 は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25) 
・信仰に生きるとは、イエスへの絶対的信頼をもって接近することであり、求める人に必ず答えてくださることを信じることである。イエス

 の時代、万策尽きてイエスの命を預けた「イエスの服に触れる女」(マルコ5:25-34)「100人隊長の僕を癒す」。(マタイ8:

 5-13) この人たちの姿を手本として生きていきたい。