マタイによる福音書15:21-39      2015.6.28

カナンの女の信仰 21-28

 イエスが訪問するガリラヤ湖周辺の町々では、イエスの噂を耳にした群衆が多く集まった。一人静かな環境で過ごしたいと考えたイエスは、そのために伝道の拠点であったカファルナウムを離れ、ティルスとシドンの地方へ向かった。ところがどうしたことか、ここにもイエス到来の噂を聞きつけたこの地の女が、イエスの到着を「待っていました」とばかりに近寄って来た。会えるチャンスがあれば何としてもものにしたい、千歳一隅のワンチャンスと考えていた。それほどイエスを待ちわびた。また、それほどイエスと言う人物の評判が高かった。女のイエスに投げかけた言葉が3回続く。

1回「『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」

2回「女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」(イエスの発言)、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

 第3回「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

1回は、普通の人と同じで、自分の欲求だけを願った。この時は、立ったまま、「憐れん

でください」と本音をぶつけた。第2回になると、ひれ伏して、「お助けください」と女の差し迫った様子を現わした。あなたの他に私は助けていただく道がないのです、の気持ちが伝わる。それでもイエスは、女に対して屈辱的な言葉、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」…イスラエル人に与えるパンをよそ者に与えることはできない、と冷酷に伝えた。その言葉にめげず、女は第3回目で、イエスの言葉を素直に受け入れ「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えた。女は、子犬で結です、ただ、あなたに繋がらせてください、関係を持たせ続けてください、と懇願する。どこまでも神の前にへりくだる姿勢であった。謙遜な姿であった。

 女は、2回目の時、「娘が悪霊でひどく苦しめられています」とは言わなかった。ただイエスに、助けていただきたい、共にいてほしい、そうであれば娘の病気が治らなくても結構です! 女はそ

う言った。我々は自分が無ってしまうと考えるが、女のように、神中心になければならない。主の祈りのように「御名が崇められますように」という信仰でなければならない。

  大勢の病人を癒す 29-31

この女と別れたイエスは、山に登り、座っておられた。平地から高い山に登り、日常の生活空間から離れ、神のそばで静かな時間を過ごしたい、と考えたであろう。

30大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」 イエスは、すんなりと黙って癒された。何故だろうか。足、目、体、口に障害があり自由を奪われ、人の手、力を借りなければ山に登っているイエスのもとに行けない人々であった 。イエスは、その苦労を十分察知したのであった。

4千人に食べ物を与える 32-39

 5千人に食べ物を与えた時は、残ったパン屑は、12の籠がいっぱいであった。この12の数は、イスラエル12部族、全てのイスラエルを養うことを意味すると言われる。今回の4千人では、の籠が一杯となった。7は完全数で異民族を含む全ての民を養われたことを意味すると言われる。

この奇跡は、イエスが神にすべてを委ねた時に起きた。イエスがその少ししかないパンを感謝して裂くと、神の恵みが働き、4千人が満服した後、残りのパンが7つの籠に一杯になった。神への感謝の大切さがいかに大切なことか、イエスの祈る姿が迫って来る。

むすびとして

カナンの女のように、どんな境遇、道が待っていようと全てを感謝して受け入れ、命を賭けて救い主、助け主にすがれば、神は最善の道を用意してくださる。