コリントの信徒への手紙Ⅰ9:1-27      2024.2.18

西澤 正文

テーマ: 福音のためならばどんなこともします(23)

 パウロは先ず、コリント教会の人々へ気心知れた仲間として親しみを込めた挨拶をしました。今まで、如何にコリントの人々に心を尽くしてきたか、あなた方はわたしが働いて得た成果、わたしの使徒 わたしにとりあなた方は、わたしが使徒であることの生きた証しだとまで言っています。 

 何故、ここまで使徒職にこだわって弁明するのか…パウロの使徒職への批判があったからです。パウロは当初、キリスト教を信じる人々を激しく迫害しました。また、パウロはイエスの12弟子の一人でもなく、イエスから「伝道せよ」と派遣された者でもなかった。そのパウロが伝道するとは……の批判があったかです。

 パウロはこの使途職の権利を利用しません。福音を述べ伝えることが、何より大切と考えと考えたからです。わたしが福音を告げ知らしたとしてもそれは誇りでも何でもなく、「そうせずにはいられないからである」と、きっぱり言ってい

 

ます。また「わたしの報酬とは、与えられた権利を用いないこと、福音を述べる時、無報酬で述べることです」(18)とも言っています。

 福音のためならば、どんなことでもします、何故なら私自身も、皆さんと一緒に福音をいただきたいため、自分を無くし、奴隷となって、他人に仕えたい、とはっきり伝えています。

 使徒職の権利は、福音宣教に専念するため生活費を確保することを放棄すること。その理由は、キリストの福音を妨げたくないため。それは、自分の意志ではなく、そうせずにはいられない上からの、聖霊の指示により使徒の務めである。パウロはこの啓示を受けたからです。

▢まとめとして

 全てのキリスト者は、ある意味、全員が伝道者です。御言葉を語り、伝えるという本来の伝道、そしてもう一つ、クリスチャンとして、日々の生活態度、姿そのものが、周りの人々との交わりの中で放つ香り、言葉使い、振る舞い、心配り、声掛けが伝道となっている、そのように信じます。