ガラテヤの信徒への手紙 5:16-6:18          2019.6.23
テーマ: 主イエス・キリストの十字架以外、誇るものはない(14)
 聖霊はいつも私達の近くに風のように流れている。しかし、わたしたちはそれを受け止めることができない。それは、わたしたちの心は、自意識に縛られ、常に、自分本位の雑念で満たされ、空っぽにできないため、神への思いが弱く、聖霊をキャッチできない。
 使徒言行録1章は、イエスが十字架に架かり、召され、復活され弟子たちに現れた様子が書かれている。イエスは「あなた方は間もなく聖霊を受ける」、この約束をじっと待っていなさい、と言われた。その間、人々はひたすら祈って待ち、そして聖霊に満たされた。
 聖霊が注がれるための準備、雑念を捨て、心を空っぽにし、ひたすら力を合わせ、熱い祈りを続けられました。そこに聖霊が注がれました。
 物を入れるとき空っぽの場が必要で、それと同じように、心を空っぽにして初めて聖霊が下ります。わたしたちは、しっかりと自分自身を整える、心を空にすることなしに聖霊は下らない 聖霊を頂くには、頂くための準備が必要です。
 霊に従う人、肉に従い人、それぞれの人の人生の結果は、永遠の命に至るか、滅びの人生に至るか、明らかとなります。
 パウロは、手紙の結びにあたり、今まで口述筆記でしたが、それを止め、私自身の手で、大きな字で、あなた方に書いています、と訴えます。
 信仰のみだけでは迫害を受ける、そのように思い、迫害を恐れる人は、あなた方に割礼を受けるよう勧めます。しかし、このような人は、自身も律法を守っていませんが、人には、割礼を強要します。それは、自分達の支配下に入れたことを誇りたいためです。
 しかし私たちは、キリストの十字架以外、誇るものがあってはなりません。十字架がすべてです。割礼も洗礼も愛餐会も、キリストの十字架を信じれば、あっても、なくても良いものです。純粋にイエス・キリストを信じる人は、キリストの十字架上の姿を見詰めるには、むしろ余分なものはない方が、鮮明に見ることが出来てよいのです。
 大切なことは、十字架上のキリストを仰ぎ見て、あたらしい朝が来る度に、新しい自分に生まれ変わり、隣人を愛することができるようキリスト共に歩むことです。
▢むすびとして
 信仰の道を歩むには、神の前に一人になることに尽きます。神に使命を示された人は、その使命を全うするために一人で進むしかない。導き手は聖霊のみです。
 我々キリスト者の大切な戒めは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの主である神を愛しなさい」この神を愛しなさいの戒めは、「信じなさい」に言いかえることが出来ます。他の神を拝してはならない、私は、ねたむ神、だから、ひたすら、誠心誠意わたしのみ信じなさいということです。そのためには、先ず隣人を愛することでなく、徹底して神の前、キリストの十字架の前に立ち続け、自分自身の罪を示される事です。そしてその罪が赦され、今、こうして生かされている喜びを実感することが出来ます。そのことがこの手紙の最初のパウロの挨拶(1:1)の自己紹介でもあります。キリスト者の原点です。