使徒言行録1章 「黎明期の弟子たちの姿」               2019.7.7
                                                       講話者:小田弘平
(1)聖霊が与えられる
 十字架につけられたイエスは復活されて弟子たちの前に姿を現された。イエスは自分に従ってきた弟子たちを福音の真理を世に伝える働き人にしようと、その後イエスは40日間にわたって教え込まれた。しかし、彼らは真理を伝えるにはあまりにも頼りない。そこでイエスは弟子たちに助け手として聖霊が与えられるから、エルサレムを離れないでいなさいと言われた。
   当時エルサレムは、イエス・キリストを十字架につけた律法学者やファリサイ人たちが、イエス・キリスト派の残党を捜索している危険な街であった。そのためイエスの弟子たちは家に鍵をかけて隠れていた(ヨハネによる福音書20章19節)。なぜイエスはエルサレムから離れず、踏みとどまりなさいと言われたのだろうか。聖書には「荒れ野」にこそ、人を育てるという考えがある。洗礼者ヨハネも荒れ野で神の道を整える準備の時を送った(マタイによる福音書3章3節から4節)。またイエスも40日間荒れ野で「霊」によって引き回され、悪魔の誘惑を受けられながら試練の時を過ごされた(同4章1節から2節)。
(2)神の国はいつ来るのか
 エルサレムに集まった使徒たちは神の国を完成させられるのは「今ですか」と復活されたイエスに尋ねた。使徒たちの最大の関心事は、神の国はいつ来るのかということであった。ところがイエスは意外にも「あなたがたの知るところではない」ときっぱり言われた。それにはまず、あなたがたはイエスが神の子であったことを地の果てまで証ししなければならない、そのために聖霊と力が与えられなければならないと言われた。
 この時、イエスは神の国の到来の時期までの時間は伸びるという重大な真理を示された。時期はわからないからこそ、わたしたちはこの地上での生を緊張と誠実をもって生きる。心を込めて一日を送ることの真理を「十人のおとめのたとえ」(マタイによる福音書25章1節から13節)が教えている。まだ先の話だと思って、ともし火の油を用意していなかった「愚かな五人のおとめ」になってはいけない。
(3)使徒の選出
当時、弟子たちは、仲間であったユダを失い、そのうえ主イエスが天に上げられ、不安と恐れの中にも心を合わせて熱心に祈っていた。しかし、イエスが彼らに約束された聖霊はなかなか降らない。焦ったペトロはある日、エルサレムに集まっていた120人の「兄弟」に向かって、話し始めた。「自分たちの仲間であり、使徒であったユダを失った。どうしたらよいだろうか」と。ペトロの言葉からは、ユダを裏切り者と決めつけ、弾劾する気持ちは伺われない。ペトロ自身がイエスを三度裏切っている。ペトロにとってユダは「兄弟」だったのだ。そうしてペトロは後任者を選ぶことを提案した。ところが、彼らは主イエスと共にいた者の候補者二名の中から、くじでマティアを使徒に選出するという過ちを犯してしまった。待っていれば「聖霊」が与えられるとの言葉に立ち切ることができなかったのだ。その後、五十日目(五旬祭)に聖霊が与えられた。彼らは僅か十日間を待てなかったことになる。恐らく彼らは焦って、形だけでも整えようとしたのだろう。果たして紀元33年、パウロが復活のイエスに出会って、「使徒として」活動を始めた。復活されたイエスが後任としてパウロを選ばれた。使徒の選任は神の子であるイエスの業であった。
 こうして彼らは回り道を経ながらも聖霊が降るよう祈りを合わせていた。これからどのような道が待っているのか、全く想像もできない日々だった。彼らは「小さな群れよ、恐れるな、あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカによる福音書12章32節)と語られたイエスを思い出していただろう。