ロマ書8:1-17                 2016.11.27
主題:神の御霊により私たちも復活する(11節)
キリストの霊により罪と死から解放された(1-11節)
 大切なことは「キリスト・イエスにある者はもはや罪に定められることはない」ということである。「キリスト・イエスにある者」は、生きるキリストの中に入っている者、キリストと融合して一つになっている者であり、この者は再び罪に定められない。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)
 自分に寄り頼む「肉の人」は、肉の欲を追い求め、如何にして儲けようか、地位を得ようか、楽しもうかということばかり考える。キリストに寄り頼む「霊の人」は、毎日ずっと霊のことだけを思い、如何に神の前で義を保とうか、罪から離れ潔く(いさぎよ)いようか、天国はどんなところか、再臨の日は何時であろうか、そんなことばかり思っている。肉のことばかり思う人は、結局は死に、霊のことを思う人は永遠を与えられるのである。
 聖書は語る。「神は霊である だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4:24) 「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロニケⅠ5:23)
 神の霊(聖霊)と人間に備わっている霊が、共に感応する(=共に感じ合う)時、丁度ラジオの周波数が合い、感度良好な状態で音声が聴きやすくなるように、神を迎えることができる。
 キリスト者は、キリストの教えた教を実行するだけのものではない 信者がキリストになることである 信者の中にキリストに宿ってもらうことであり、また、キリストの教えは、キリストに宿ってもらわなければ、実行できない。
聖霊に導かれることが神の子の保証(12-17節)
 私たちは神により、愛の負債(神の愛により生かされている)を受けている しかしこの世の負債と異なり、返済無用である 無償である 全くの恩恵である しかし、一方的な恩恵だから、それだからこそこの愛に応え少しでも恩返しをしなければと考える この恩返しがしたいと感じることで、悪魔の誘惑を拒み続けること、これがせめてもの恩返しである これも神、御霊に悪の誘惑に負けないようにと祈ることが欠かせない。
 贖罪により罪赦され永遠に生き、肉体の復活まで話されたパウロは、ここで私たちを神の子であるといわれた。神の子とは聖霊に導かれている者であり、聖書に従えば、人類は神の敵であるが、その中から選ばれた少数のみ、つまり、聖霊に導かれる者のみが神の子である 聖霊に導かれない者はアダムの子のままである。
律法中心の今までの信仰は、恐れの信仰であり、律法を行わなければ罰せられるという恐れの中にあった。しかし私たちの神は、検事や判事のような恐ろしいお方でなく、全ての罪をご自分に負ってくださった優しい父である 父は子供に「お父様」と言って、なつかれるほどうれしいことはない。人間の為し得る最大の善事は、神を「お父様」と呼んでなつく事、信頼する事である。
まとめとして 
 イエスの死より贖われたキリスト者は、キリストの再臨の時に霊の体に復活することが約束されている。これは、キリスト者にとり神から頂く最高のプレゼント、御恵である。この大きな恵みを信じ切って天国へ旅する人になりたい。天国では、この世で味わって来た肉の痛み、老いの不安から解放され、今まで味わったことの無い平安で穏やかな心で、神を仰ぎ、天国へ一足先に帰られた多くの兄弟姉妹と共に信仰の喜びを分かち合いたい。