ルカ11:1-23                 2018.7.15
テーマ:執ように頼めば(8)
 イエスは、祈りの人と言われるようによく祈られました。11章の初めにも「イエスはある所で祈っておられた。」(1)と記されています。ルカによる福音書には、祈りに関することが、10か所記されている。5-13節では旅行中の友人に与える食べ物を求めることが紹介されています。このところでイエスは、如何に祈るかを教えています。
 ここの教えは、「熱心に祈りなさい」に尽きます。「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8)と。
自分の事でなく友のために、これ程熱心になれるだけでも素晴らしいとです。しかし、イエスは友のためであっても、それだけの理由では、不足であると言う。切なる求めがなければ駄目だと。夜になり、玄関の戸を閉め、子供と一緒に布団に入り寝静まる、そんな時にわざわざ布団から出て、戸を開け、話を聞くことは、勘弁してくれ……と。昼間であれば、友であれば、すぐ願いに応えられる。しかし時間が時間であり、子供たちがやっと寝静まった時は、犠牲があまりにも大きい。この状況を打開する祈りは、通り一遍の薄っぺらな祈りは、相手に届きません。
 「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」(9)…徐々に過激な行動となっています。これが熱心な態度です。ヨハネ福音書にも熱心に祈りなさいとあります。「はっきり言っておく。あなたがたがわたし(イエス)の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:23-24)
 たとえ、願いが叶えられなくても、熱心で真実な祈りをした者には、聖霊を与えてくださる。聖霊が与えられることは、祈る前には無かった目に見えないオブラートのような囲いの中に招かれたようで、言葉では表現出来ない安らぎ、平安に包まれる。この特別な空気が聖霊による賜物である、と私は思っています。祈りの後に言いようのない安らぎに満ちた実感を与えられることは、信徒の絶大な慰めです。
如何に祈るか…それは隣人を愛したいが実現できない、そのことを通し己の至らない罪を感じた者の呻きです。何かしたいができない。神は、「私の愛に従って来なさい」と言いますが、神の言葉に従いながらもそこに到達できず、困って叫ぶ祈りができますようと願い、この祈りこそ本当の祈りと感じます。熱心に祈ることも大切であるがそれよりも何よりも、愛の不足を感じることが大切であり、愛していこうという気持ち、願いに対し、神は、祈りの中で答えられます。
▢まとめ 
 如何に祈るかの本は、隣人愛を実現したいができない、そのことを自覚した時、自分の罪を感じた祈りが本当の祈りであり、この祈りを神は待っておられる。「わたしについて来たい者は、十字架を背負って、わたしに従って来なさい」というイエスの招きのみ言葉に対し、現実の自分の姿は、どんなにかけ離れているのだろう。現実の小さき者、至らない者の姿を示されて歩みたい。