コリントの信徒への手紙Ⅰ15:1-34              2017.7.23
テーマ:キリストは聖書に書いてある通り3日目に復活した(3-4)
 パウロは、15章に入ると復活について述べる。パウロの数多くある手紙の中で、ローマの信徒への手紙とガラテヤ信徒への手紙の冒頭の挨拶に、復活について触れる。この2つの手紙は、パウロの代表作と言われ、信仰の本質が多く記されているように思う。
 ローマの信徒への手紙には、御子イエスの紹介として「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子とさだめられた」と記す。また、ガラテヤの信徒への手紙には、パウロ自身の紹介として「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と記す。大事な2つの手紙の冒頭に、復活に触れることからも、パウロが如何に復活について重要視していたかが理解できる。
▢1-11 キリストの復活は事実
 復活は、理論に基礎を置くのでなく、事実に基礎を置いている。「(復活されたイエスにお会いした方々は)大部分は今なお生き残っています。」(6)これは、パウロの虚偽、作り話でないことを示している。嘘と思うならその方々に聞いてみるがいい…、そんなパウロの気持ちが込められている。イエスは、事あるごとに弟子たちに、殺されること、死後3日目に復活することを予告し、3福音書が同じように3回繰り返しそのことを記している。イエスの復活の様子については、3福音書はもちろんの事、ヨハネ福音書(20:1-10、使徒言行録(1:3-9)にも登場する。このように検証すると、キリスト教は、永遠にこの確実なキリストの十字架と復活に救いの基礎を置く、と言える。
▢12-19 復活がなければ
 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに」(12)……コリント教会の人々の中に、死人の復活を否定する者があつた。パウロは、キリス卜が確実に復活したのに、コリントの人々は、死人の復活が無い筈がないと述べた。キリストが神の子であるから、十字架の死は、私たち人間の罪のための死である事がわかる。よって、十字架による私たちの罪の赦しも、キリストの復活にその基礎を置く。
 復活がなければ、イエスのこの世での宣教活動の全てが、嘘となる。人びとを裏切ることとなる。召されて3日目の復活、弟子達に現れたことも嘘となる。イエスが十字架に架かり人々の罪を贖い、命を捧げた行為も嘘となり、人々の罪は赦されず、罪人のままの状態となる。キリストの教えは、実施されず、絵に描いた餅であり、この世の権力に敗け、敗者となる。キリスト教の教え、真理が、根底から覆されてしまうことになる。イエスキリストが復活された事実は、キリスト教の根本的な教理である。
▢20-28 復活の意義
 キリストが全ての死者、眠りに就いた人々の中から最初に復活された。死が、一人の人・
アダムによりこの世に生まれた。復活も、一人の人・キリストイエスによりこの世に来た。但し復活にも順番があり、最初に、キリスト、次に、キリストに属している人たち、最後に、この世の終わりが来る。この時同時に、キリストは、この地上の全ての支配、権威、勢力を支配される そして最後に、死をこの地上から一掃される。この時、キリストの手にこの世が完全に収まった時、キリストは、神の御手に収まり、神の御計画が成し遂げられる。 
▢29-34 復活と生活との関係
 いままで復活を信じて来たのに、死んだ人は生き返らない。復活は本当にあるのか…、と疑いの気持ちが起こる。多くの人は内心、本当にいつか復活できるって本当だろうか…と思っているだろう。復活を信じても信じなくても、死んでいく者は死んでいく。だが、キリストに属する人はこの復活の命に預かることが出来る。復活を信じることは、日常生活を前向きに生きる源泉となる。パウロは復活を信ずる為に、非常な迫害に耐え、日々死を経験した。復活信仰は、日常生活に、確実な目標を与え、これに向かい前向きに生きる力の源となる。
▢まとめとして
1.聖書に記された内容は、事実として受け止めなければいけない。これはキリスト者としての基本的な態度となる。
2.パウロの鮮やかな回心…傲慢な人から謙遜な人への大変身は、わたしたちキリスト者の信仰の成長尺度となり、見本と思われる。