-偽善者になるな-
ファリサイ人や祭司長等を相手にするのを終えたイエスは、ここで学問の無い民衆や弟子
たちだけとなり、言わば内輪となって、だれに遠慮することもなく率直に本音を語られた。
  律法(モーセの十戒)を定めたモーセの跡継ぎであると自らが言い、国民の宗教的行い、道徳的な規定を命じる座に座っているファリサイ派の人々は、謹厳なる道徳家であり、「言うだけで実行しない」(3)と言うのは少し言い過ぎである。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(5:20)とイエスが言ったのを見てもわかる。ファリサイ人全体ではなく、ここで対象としているのは、ファリサイ人の特定の人たちである。見出しでは「人々を非難する」となっているが特定の人である。
 ファリサイ人は外形的に守っていただけで、心の中まで正しくなることまでは努めなかった。しかしモーセの十戒は、心の中まで正しくなることを要求しているので、その意味では律法を実行していなかった。「彼らの言うことは、すべて行い、守りなさい」(3)とイエスは言う。例えば、学校の先生等は正しいことを生徒に話すが、その言葉は神から来た 故に先生が実行しなくても我々は実行しなくてはならない。大切なことは、語る人(=先生)を見るのではなく、語らしめているその背後におられる神を見よ、そのことをイエスは言われた。
  神の目から見れば、我々人間はだれ一人完全でない。外形の行いはともかく、心の中の罪…にくみ、ねたみ、冷酷、むさぼり等…がある間は、神の前では悪人である。ファリサイ人達はそれを知らない。
 ファリサイ人達は、もちろん外よりも食べ物、飲み物を入れる内側をより清めた。(25-26) しかしイエスが言われるのは,人間の内側の“心を清めなさい”ということである。杯、皿に民衆から奪った物を満たせば、いくら宗教的に清めても汚れている、と言うのである。宗教的清めはどうでも良い、人間の内側の心の中を清めなければならない。 
むすびとして
1.教師は、自分は神から赦されなければならないと言うことを忘れている者である。教師は絶えず教える立場にいることを無意識の内に持つ。自分こそ許されなければならない者、罪人のかしらであることを知らない。聖書を自分不在の読み方、誰か他人に語り掛けているような気持ちで読む人である。そのような読み方は聖書のすばらしさも分からず、聖書の御言葉の驚きも生じない。私たちが本当に打ち砕かれた時、あなたのためにイエスは来たのだ、という十字架の主の呼びかけが聞こえてくる。
2.反省、悔い改めのある生活者でいたい。正しい、良い、と思っていても、振り返ってみると曲がった生活をしている。私は、中学生の時にバスケット部に所属した。出来たばかりの学校は体育館が無く、校庭の隅にあったコートを石灰で線を引いた。まっすぐ引いたつもりが、振り返れば曲がっている。あまりにもひどく曲がっていてよく笑ったことを覚えている。後ろに戻って靴で消して引き直す。「真っ直ぐなつもり」でも曲がっている。日常生活も同じである。常に振り返る事、反省が必要である。反省を忘れてしまったファリサイ人にならないようにしたい。