マタイによる福音書6:1-18      2015.1.18

施し、祈り、断食につて、イエスは端的に言う「真の敬虔な、慎ましい行いは、人に見せるためでなく、只天におられる父に見られるように隠れて行うべきである」と。

1-4 施しをする時には

良い行いは、人に分からないようにそっと行いなさい。良い行いが人に分かれば、既に

報いを受けたことになり、神からの報いは受けられない。良い行いの動機は、純粋でなければならない。見返りがあって何かを為すことは容易である。それは打算的であり、自分のための行いとなる。しかしキリスト者は、捧げることを喜びとし、神への愛の応答として捧げなさい。大切なことは、どのような行いをどれだけ為すかでなく、純粋な動機であり、神のために為すことである。

私は個人的に信仰上大変お世話になった方がいる。その方は静岡市在住の石川昌治様で

ある。長年保護司をされたが、市の表彰規定により文化の日に市長表彰の対象者として推薦されていることを知り、表彰される前に辞職された。このことはこの世からでなく、神から報われることを選択したのである。信仰に徹した道を優先されたのであり、信仰の証をされたように思うのである。

我々キリスト者は、何か良いことをしなければの意識より、ただ神のみ心を為すよう心がけたい。そして、キリスト者の中に生まれた光を遮断しないよう、隠さないように注意したい。神、イエスキリストに繋がっていれば、どんな人でもいつか必ず煌々と輝くことができると信じる。(マタイ5:16)

5-15 祈る時には

 祈るときも、施しと同様で人に知れることで、既に報いを受けてしまっている。祈るときは人目を避け、静かなところで父なる神に祈るべきである。そうすれば施し同様に隠れたことを見ておられる父が報いてくださる。また、異邦人のように目立とうとして、わざと長たらしく祈ってはいけない。既に天の父は、願う前から一人ひとり祈る人のこころの中をご存知である。だから「主の祈り」のように簡潔に分かりや易く祈りなさい。ただ初めから自身の願いからでなく、神への呼びかけから始め、神を崇めなさい。それから自身の願いを求めなさい。最後に栄光を神に帰すよう祈りなさい。私たちは、命を繋ぐためにも食べ物を確保することは大切なこと、しかし、今日一日分与えていただけるよう祈るのであり、明日の分、1週間分と長期間のものを祈ってはいけない。日に日に心新たに祈り続けることが大切である。そのことから、食料は、神の賜物であり、クリスチャンの特徴の一つである食前の感謝の祈りが生まれる。「私たちの天からの糧を今日も与えてくださりかんしゃです」とお祈りしてから戴くのである。感謝は信仰の表明となるのである。

16-18断食する時には

 断食の行為も、施し、祈り同様、人目につかないように気をつけなさい。偽善者は断食

の辛さを人に知ってほしいと辛そうな顔をするがそうであってはならない。断食の大きな

目的は、目をこの世から離し、神に集中し、神との関係を深めることである。祈りの時を

過すために食物を立つことは崇高なこと、難しいことである。断食は私たちに祈るための

時間を与え、自己を見つめ、更に神の賜物に感謝する機会となる。イエスは断食を非難し

たのではなく、人々から評価を得るため断食することを非難したのであり、密かに誠実に

行われる献身的行為を賞賛したのであった。

まとめとして

・施しの動機は、自分の思いでなく、神により示され行われるものである。我々の為すべきことは、只神の命令、指示、御旨を訪ね求め、か細い神の御声を聞きわけることができるよう神に近づくことである。

・神は、既に人から褒められた行為は褒めない。神は常に「神かこの世(人)か」のどちらかを求めておられる。「我らの国籍は天にあり」であり、神のために生きることを求めておられる。