マタイによる福音書5章1-20      2014.12.7

山上の説教(5-7章)の開始

はじめに

山上の説教の始めは「イエスは群衆を見て、山に登られた」(5:1)、終わりは「イエスが山を下りられると、大勢の群集が従った」(8:1)とあるように、説教の内容は5章から7章までの3章である。イエスは、これから大切なことを話そう、と腰を下ろす。弟子たちもイエスの様子を察知し御元に近づいてきたのである。

イエスの教え

 イエスの教えは、およそ私たちの普通の考えからかけ離れ、逆説的な内容ばかりである。「貧しい人が幸いである」など、およそ考えられない。そのようなことを言ったら気が狂っていると思われてしまう。富んでいる人が幸いであり、貧しい人は不幸である。それがこの世の道理である。悲しんでいる人より喜んでいる人が幸いであり、強い人が地を継ぎ、弱い人、柔和な人はいつの世にあっても世の片隅に追いやられる。憐み深いことをしていれば人生の落伍者になり、心の清さを求めて生きれば社会では相手にされなくなる。

 しかし、イエスが登場すると今までまかり通っていた世の道理が逆転した。イエスは全く逆のことを話し始めた。イエスは真の光として登場した。(ヨハネ1:6-9)余の片隅でひっそり生活していた貧しい人に「幸いである」といって光を充てられた。「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである」と。

 イエスが行く先々の町では、この様な「貧しい人」「病気を抱えた人」「障害を持たれた人」「社会から敬遠された孤独な人」「罪に悩む人」などのところへ行かれた。イエスは、誰も相手にされず、誰も相手にされず、ひっそり耐え忍ぶ人のもとに行かれ友達の如く手を差し伸べられる。

イエスはこのような社会の片隅で生活を余儀なくされた人々のところへ徹底して近づいて行かれた。イエスはこのような人を求めておられる。イエスが行けばそこに光があたる。幸せが訪れるのである。

山上の教えは、「神の目から見て何が幸せか」と告げる。笑い、快楽、この世の繁栄などは約束しない。神の国はこの世の国とは異なり、富も権力も権威も重要でない、また、自己中心さ、思い上がり、権力欲などを徹底して嫌う。イエスの謙虚さ、自己犠牲に倣えと教える。

地の塩、世の光

クリスチャンは、安易に他の人々と融合すべきでない。調味料が最高の味を引き出すよ

うに、他の人々に影響を及ぼす存在でありたい。世の光 山の上にある町に灯りがともれば、光は遠くからでも見ることができる。クリスチャンはキリストのために生きるなら、キリストがどのようなお方かを示す光のように照り輝く存在となる。

律法

 社会がにとり大切な律法(決まりごと)は、素直に受け入れ守ることを当然のこととして従順に従いなさい、それが天国を目指す者の姿であり、何も大げさにすることはない。当然のことは当然として従えばそれでよい。天に国籍を持つものはそのようなことに大げさに付き合うこともない。社会に長い年月をかけて法文化された律法、決まりごとがあるのは、この社会に住む人々が平和に、公平に平等に生活するために作られた。この本来の目的をわすれ、細かな1本1本の木々に目を奪われ、森全体を見なくなることを戒める。

まとめとして

わたしたちの立ち位置を地上から天へ、人から神・イエスキリストに移動し、祈りの中で神、イエスキリストに会い、祈り、感謝し信仰生活を送りたい。我らの目標は地でなく天である。神を仰ぎつつ、神の真理がどこにあるのか、訪ねつつ生活するのである。